京都府亀岡市では、丹波亀山城が完成して400年であることから、築城400年としてまちづくりにつなげた様々な事業が展開されている。
丹波亀山城は明智光秀が築城し、その後、豊臣秀吉の支配を経て、天下統一した徳川家譜代の大名の城となっている。
徳川家の藩主は度々入れ替わり、松平(形原)家が藩主の時に幕末を迎えている。
天守は現存はしないが、城跡には天守の石垣がひっそり残っている。

『第26回特別展 光秀・亀山城・城下町』編集・発行 亀岡市文化資料館 より引用
この建物は、京都府亀岡市内の保津町にあり、これまで『保津五区会議所』として当地区の集会所に使用されていた。当建物は『新修亀岡市史』の掲載の中では、旧亀山藩の御学問所であったとされ、明治15年に当地に移築されたものとされていた。
建物を所有する保津五苗財団では、建物が老朽化したことから、一時改築する計画もされたが、数少ない亀山城の遺構であることから、保存改修の方向で事業を進めることになった。
同時に亀岡市側でも、亀山城の移築建築遺構として指定有形文化財とするための詳細な調査を実施された。現地調査は、大場修氏(京都府立大学 大学院教授 工学博士)がされている。この調査により、この建物は当初の平面構成と『亀山藩邸絵図』(亀岡市史資料)における御殿の間取りが完全に一致したことから、亀山城内にあった御殿の玄関部分の一部が移築されたことが明らかとなった。
その後、亀岡市の指定有形文化財に指定され、復原修復工事は平成24年5月に完成している。
遺構としての詳細
この建物は、亀山城三の丸内に文久四年(一八六四)に建てられた御殿の玄関部分が、明治一五年(一八八二)当地に移築されたものである。この御殿は、「亀山藩邸絵図」(『亀岡市史』資料編第二巻別冊、二〇〇二年、収録)にその間取りが描かれている。
今回の改修工事に先立つ調査により、この保津五苗財団の建物の当初の平面構成と、御殿の間取りとが完全に一致したために、この事実が初めて明らかとなった。
この建物は元御殿の表玄関、およびそれに付属する部屋廻りに相当するが、移築された際に大床や小玄関等が失われていた。今回の改修工事により、大床や小玄関等、改変された箇所を復原したことで、この建物の由緒が明確となった意義は大きい。
亀山城関係の移築遺構は市内に少なくはない。しかし、多くが門などであり、この建物のように御殿の玄関部が移築されている事例は珍しい。
今回の復原改修工事によって、近世後期の亀山城内における御殿建築の様子を具体的に知ることができるようになった。旧亀山城内からの数少ない移築建築遺構として、その文化財的価値はきわめて高い。
末永く保存され、活用されることが望まれる(大場 修)。
『遺構としての詳細』については、竣工時に玄関脇に取付された銘板に記載される大場修氏の説明文をそのまま引用したものである。

『亀岡市史』資料編第二巻別冊 二〇〇二年 より引用
修復前







修復後



玄関左は復原した小玄関

庇は当初、柿板葺であったが、今回は銅板葺として意匠を継承している。


右は復原した大床



